神明町(しんめいちょう)

昭和19年、下条の一部を町名改称。字寺内町の一部で南溟寺の寺内として古くから町屋、加子屋、百姓屋の町並みが続く町場で大津の中心市街地の一角をなしている。町内にあるの東側に明治41年大津神社に合祀されるまで「神明神社」があったことから「神明町」と名づけられた。延宝絵図にも南?寺の堀筋に接し、「神明宮」が記されている。

神明神社は、天正5年(1577年)泉南淡輪を土豪淡輪大和守徹斎が根来戦乱により大津に隠棲したおり、本尊と氏神を供にし、祀るため来迎院、神明社を建立したとされます。祭神は、「天照大神」「船玉神」である。元文4(1739)年の記録では、376坪の境内に本殿、拝殿のほか船玉社、観音堂、弁天社、鳥居、社務所のある立派なものとなっている。

南?寺は、天文4(1536)年宇多荘に「長泉寺」を創建、文禄4(1595)年、眞鍋氏の大津城の荒地を申しうけ現在地に移転し、寺を中心に寺内町が発展したといわれる。一時期「大津御堂」とも呼ばれ、延宝6(1678)年寺号を下付される。正保2年には、伯太藩主渡辺氏の菩提寺となっている。大津城は、眞鍋城とも呼ばれ、眞鍋主馬大輔の居城といわれる。主馬大輔は信長の命により石山合戦に参戦し、天正4(1576)年大坂川口合戦で毛利水軍と戦い討死する。その子貞成は、秀吉につかえ、岸和田城将の中村一氏の旗下となり紀州根来・雑賀衆と攻防、天正12(1584)年、大津浦に船三百隻で攻め寄せた雑賀・淡路衆一千余人を眞鍋勢130余で防ぎ撃退し功名をあげている(大津松原合戦)。

 

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