浜街道の概要

更新日:2023年08月01日

浜街道の歴史と沿革

「紀州街道」の海側に、これと平行して通る通称『浜街道』があります。この地区では各時代の町家建築が多く残され、歴史的街道として泉大津市の貴重な文化資産となっています。

江戸時代から漁業のかたわら真田紐を生産し、その後期から明治にかけては家内制手工業を確立し、その後の毛布産業の素地をつくりあげます。

また、大正・昭和にかけては織屋、酒屋、煙草屋、風呂屋、散髪屋、畳屋、魚屋、八百屋等の商店が軒をつらね中心街として発展していきます。中でも、毛布産業による街の発展は様々な文化的要素を生活や人々の精神に培い、地場産業の衰退化が進む今日でも、現存する工場の三角屋根に象徴されるように親しみをもって受け継がれています。

浜街道と呼ばれる内町筋

浜街道という呼称は、正式な名称ではなく、浜沿いの道筋といった意味合いを持つ通称と考えられます。この名称がいつごろからのものかは定かではなく、現在も菅原町から東港町、西港町にかけてのこの道筋は、そう呼ばれており、古い家屋が点在しています。

十八世紀以降、紀州街道が紀州徳川家の公用道である一方で、浜街道の名称は文献上にも現れていません。しかし、「下条・宇多両大津村延宝絵図」には、道筋や海岸線が描かれており、浜街道と呼ぶ道筋には内町筋との記載があります。

浜街道はメーンストリート

 延宝七(1679)年の新検地に関して描かれた控えの村絵図「下条・宇多両大津村延宝絵図」(市指定有形文化財・個人蔵)には、道筋の他、川筋・寺社・高札場・家屋が描かれているが、特に、家屋は一軒ごとに町家・加子家(漁家)・百姓家の別が、記号と色で書き分けられている。これらを詳しく見ると、紀州街道沿いには家屋がほとんど無い。

一方、浜街道の両側に町家、その西側に加子家、東側に百姓家と町家が広がり、大津村のメーンストリートとなっています。絵図では、南北の中央に浜街道が通じ、これに直交して9本の道筋があり、整然とした都市計画に基づいた町割となっています。この町割の北東端に大津城跡(真鍋城)と伝えられる南溟寺があり、寺内町として発展したものとみられます。

また、現在の地図に延宝絵図を重ねてみると、浜街道周辺は、海岸線、家屋の数こそ変化したものの、三百年以上経た現在も、町割りが非常によく残っていることがわかります。  

浜街道概要写真

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